2023年3月にEthereum メインネットで稼働を開始したERC-4337は、それから約2年で急速に採用が広がりました。大手取引所や主要なL2ネットワーク、著名なdAppがスマートウォレットへの対応を強化し、Account Abstraction(AA)は徐々にWeb3の標準インフラとしての地位を確立しつつあります。
一方で、普及には依然として課題も残っています。既存のEOAユーザーの移行コスト、プロトコル間での互換性の問題、そして教育コスト——これらの問題を解決しながら、スマートウォレットはどのように普及していくのでしょうか。
本記事では、Account Abstractionの現在の普及状況を数字を交えて整理し、主要プレーヤーの動向と今後の市場展望を考察します。
1. ERC-4337採用の現状データ
1-1. UserOperationの累積数と成長トレンド
JiffyScanやBundleBearなどのERC-4337専用アナリティクスツールによると、2024年以降UserOperationの累積実行数は急速に増加しています。特にBaseやPolygonなどのL2ネットワーク上での利用が多く、ガス代の低さがスマートウォレット採用の後押しになっていることがわかります。
CoinbaseのウォレットがBase上でのスマートウォレット機能を拡充したことや、Farcasterなどのソーシャルアプリがスマートウォレットをデフォルトとして採用したことが、2024年以降の利用増加の主要因と考えられます。チェーン別ではBase、Polygon、Arbitrumでの利用が多く、これらのL2が新しいユーザーのエントリーポイントになっています。
1-2. スマートウォレットのアドレス数とユニークユーザー
スマートウォレットのデプロイ数は急増しており、Safeのみでも数百万のスマートコントラクトウォレットが世界中で使用されています。ERC-4337の登場によって、従来のSafeに加えて新世代のスマートウォレット(Biconomy Nexus、ZeroDev Kernel、Coinbase Smart Walletなど)も台頭しています。
ただし、デプロイされたアドレス数とアクティブユーザー数には大きな乖離があることに注意が必要です。ウォレットアドレスが作成されても実際に継続的に使用されるケースは限られており、真のアクティブユーザー数はより慎重に評価する必要があります。
2. 主要プレーヤーの動向
2-1. Coinbase と Base エコシステム
Coinbaseは自社が運営するL2ネットワークBase上でのスマートウォレット普及を積極的に推進しています。Coinbase Smart WalletはCBID(Coinbase Verifications)との統合により、ソーシャルログインとウォレット作成を統一的な体験で提供しています。
Baseを利用したdAppがユーザーのオンボーディングにスマートウォレットを採用するケースが増えており、Coinbaseの強力なユーザーベースとブランド力がBase上でのAA採用を加速させています。特にコンシューマー向けのWeb3アプリケーションにおいて、Coinbase Smart WalletはAAの主要な普及手段の一つとなっています。
2-2. Safe エコシステムの拡大
機関投資家や企業向けのマルチシグウォレットとして普及してきたSafeは、ERC-4337への対応とともに個人ユーザー向けの機能強化も進めています。Safe{Core}プロトコルとして、スマートアカウントの標準インフラとしての地位確立を目指しています。
Safe上のアセット総額(TVL)は数兆円規模に達しており、機関グレードのスマートウォレットとしての実績は圧倒的です。ERC-4337との統合により、個人向けのERC-4337機能とエンタープライズグレードのマルチシグが一つのエコシステムに統合されつつあります。
3. L2エコシステムとAAの普及関係
3-1. OP Stackチェーンでの採用状況
Optimism、Base、ModeなどのOP Stackチェーンでは、ERC-4337のサポートが標準的に整備されています。これらのチェーンでは、バンドラーとPaymasterのインフラが複数のサービスプロバイダーによって提供されており、開発者が容易にAAを統合できる環境が整っています。
Optimism Foundationは、スーパーチェーンエコシステム全体でのユーザー体験統一の観点から、スマートウォレットと相互運用可能なクロスチェーンアカウントの標準化に積極的に取り組んでいます。これが実現すれば、OP Stackチェーン間でのウォレット移行が容易になります。
3-2. ZkVMチェーン(ZkSync、Starknet)でのネイティブAA
ZkSyncとStarknetはERC-4337以前から、設計段階でネイティブなAccount Abstractionをサポートしています。これらのチェーンでは、すべてのアカウントがスマートコントラクトとして動作しており、ERC-4337のオーバーヘッドなしにAAの機能が利用できます。
StarknetではCairo言語で書かれたアカウントコントラクトが使用され、STARK証明との統合によって高いセキュリティと効率性を実現しています。ZkSyncでは独自のAccount Abstraction実装が採用されており、Paymaster機能がL2のネイティブ機能として統合されています。これらのチェーンはAAの将来的な姿を示す先行事例として注目されています。
4. 課題と普及への障壁
4-1. 既存ユーザーの移行コスト
何百万もの既存EOAユーザーをスマートウォレットに移行させることは容易ではありません。アドレスが変わることへの心理的抵抗、資産の移動に伴うコスト、新しいウォレットへの学習コストなどが障壁となります。
EIP-7702はこの移行コスト問題を軽減する可能性があります。EIP-7702が実装されれば、既存のEOAアドレスを維持したままスマートウォレットの機能を活用できるようになります。ユーザーにとってウォレットアドレスの変更なしにAAの恩恵を受けられることは、移行障壁の大幅な低下を意味します。
4-2. 教育コストと標準化の課題
スマートウォレットの機能と恩恵を一般ユーザーに理解してもらうための教育コストも課題です。「スマートウォレットとは何か」「EOAとどう違うか」「ソーシャルリカバリーをどう設定するか」——これらの概念は新規ユーザーには理解しにくい場合があります。
ウォレット間の互換性も課題の一つです。あるスマートウォレットで設定したセッションキーや権限が別のウォレットでも使えるか、異なるウォレット実装間でのUXが統一されているかなど、ユーザー体験の断片化が懸念されます。ERC-7579などのモジュラースマートウォレット標準の普及が解決策として期待されています。
5. 規制環境とコンプライアンスへの影響
5-1. スマートウォレットのKYC・AML対応
金融規制の観点から、スマートウォレットはKYC(本人確認)やAML(マネーロンダリング防止)への対応が課題となっています。Paymasterによるガスレス取引やバンドラーによるトランザクションの集約が、規制当局によってどのように解釈されるかは重要な問題です。
一部の企業向けソリューションでは、スマートウォレットにKYC情報や規制コンプライアンスのロジックを組み込む試みが始まっています。例えば、特定の管轄地域の規制に準拠したユーザーのみが操作できるウォレット、または一定の取引金額を超えた場合に追加の本人確認を要求するウォレットなどです。
5-2. 日本の規制環境とスマートウォレット
日本では金融庁が暗号資産サービスへの規制を整備しており、スマートウォレットの普及もこの規制環境の中で進むことになります。スマートウォレットを介したDeFiへのアクセスが、既存の暗号資産取引所規制の対象となるかどうかは引き続き注視が必要です。
また、スマートウォレットのソーシャルリカバリーガーディアンが日本居住者のユーザーの資産に関与する場合、資産管理サービスとしての規制が適用される可能性も考えられます。各国の規制動向を注視しながら、コンプライアンスに配慮したウォレット設計が求められます。
6. 今後の展望:2025〜2026年のロードマップ
6-1. EIP-7702とEthereumのプロトコルレベルAA
EIP-7702は2024〜2025年のイーサリアムアップグレードでの実装が議論されており、実現すれば既存のEOAがスマートコントラクトのコードを一時的に委任できるようになります。これはERC-4337の機能を既存ウォレットで利用可能にする橋渡し的な役割を果たすと期待されています。
長期的には、イーサリアムのコアプロトコルに完全なAccount Abstractionを組み込む「ネイティブAA」への道筋も描かれています。Vitalik Buterinは以前からネイティブAAの重要性を訴えており、EOAの廃止とスマートアカウントへの完全移行がイーサリアムの長期目標の一つとされています。
6-2. Web3のマスアダプション媒体としてのAA
Account AbstractionはWeb3のマスアダプション(大衆化)において重要な役割を担うと考えられています。ソーシャルログインと組み合わせたウォレット作成の簡素化、ガスレス体験によるオンボーディング摩擦の解消、ソーシャルリカバリーによるシードフレーズ問題の解決——これらが組み合わさることで、Web3は一般ユーザーにとって現実的な選択肢になります。
コンシューマー向けアプリケーション(ゲーム、SNS、クリエイターエコノミーなど)がWeb3の新しい入り口となり、スマートウォレットがそのデフォルトのインフラとして機能するシナリオが描かれています。2026年に向けて、スマートウォレットを前提とした新しいWeb3アプリケーションのカテゴリが台頭してくることが予想されます。
まとめ
Account AbstractionとERC-4337は、Web3の使いやすさを向上させる重要な技術として着実に普及しています。Coinbase、Safeなどの主要プレーヤーのコミットメント、L2エコシステムでの広範な採用、そしてEIP-7702などの今後のプロトコル改善によって、スマートウォレットの普及は今後さらに加速すると考えられます。
一方で、既存ユーザーの移行コスト、標準化の課題、規制対応など、解決すべき課題も残っています。これらの課題を克服しながら、Account AbstractionがWeb3のマスアダプションを推進する基盤技術としての地位を確立していくかどうか、今後の動向に注目です。投資判断においては、技術の可能性だけでなくリスクも十分に考慮することが重要です。
よくある質問
Q1. ERC-4337とEIP-7702の違いは何ですか?
ERC-4337はイーサリアムのプロトコルを変更せずにスマートウォレットを実現するアプリケーション層の標準です。UserOperation、バンドラー、Paymasterなどの独自のインフラが必要です。一方EIP-7702は、イーサリアムのプロトコルレベルの変更提案で、既存のEOAアドレスが一時的にスマートコントラクトのコードを委任できるようにするものです。EIP-7702が実装されれば、既存ウォレットがより簡単にAA機能を利用できるようになります。
Q2. スマートウォレットへの移行でDeFiのポジションは影響を受けますか?
EOAからスマートウォレットへの移行の場合、ウォレットアドレスが変わるため、既存のDeFiポジション(担保、流動性提供など)はEOAアドレスに紐付いたまま残ります。EIP-7702が実装されれば、アドレスを変えずにAA機能を利用できるようになる可能性があります。移行前に、利用中のすべてのポジションと権限の確認・整理が必要です。
Q3. スマートウォレットのトランザクションコストは今後下がりますか?
L2ネットワークの更なる発展、イーサリアムのスケーリング改善(EIP-4844以降のblob容量拡大など)、そしてEIP-7702などのプロトコル効率化によって、スマートウォレットのトランザクションコストは今後も低下傾向にあると考えられます。特にL2上では現在でもEOAとのコスト差は小さく、実用上の障壁は低下しています。
※本記事は情報提供を目的としており、投資を推奨するものではありません。暗号資産への投資は元本割れのリスクがあります。投資判断はご自身の責任で行ってください。