暗号資産を始めようとしたとき、最初のハードルとなるのがウォレットの操作ではないでしょうか。秘密鍵の管理、シードフレーズのバックアップ、ガス代の事前準備、トランザクションの署名——これらの一つひとつが、暗号資産に不慣れなユーザーにとっては大きな壁になっています。
「秘密鍵を失ったら資産が永久に失われる」という仕組みは、セキュリティの観点では合理的ですが、数十億人が使うインフラとしては明らかに厳しすぎる設計です。銀行口座のパスワードを忘れても資産を失うことはありませんが、暗号資産ウォレットではそうはいきません。
この問題を根本的に解決しようとしているのが、アカウントアブストラクション(Account Abstraction、以下AA)です。AAは、ウォレットの仕組みそのものを再設計し、ソーシャルリカバリー(友人や家族による復旧)、ガス代の代理支払い、一括トランザクション、セッションキーなど、従来の暗号資産ウォレットでは不可能だった機能を実現する技術です。
この記事では、AAの基本概念から、イーサリアムのERC-4337を中心とした技術的な仕組み、実際のユースケース、そして暗号資産のマスアダプション(大衆普及)に与える影響まで、詳しく見ていきます。
目次
1. なぜウォレットのUXが問題なのか——暗号資産普及の最大の壁
1-1. 暗号資産の「オンボーディング問題」
世界の暗号資産ユーザー数は2026年時点で約5億人以上と推定されていますが、世界人口の約80億人と比較すると、まだ全体の6%程度に過ぎません。この普及率が伸び悩んでいる最大の要因の一つが、ウォレットのユーザー体験(UX)の悪さです。
暗号資産を初めて使う人がウォレットを設定する際のプロセスを考えてみましょう。まず、秘密鍵やシードフレーズ(12〜24個の英単語)を安全にバックアップする必要があります。次に、取引を行うためのガス代(手数料として支払うネイティブトークン)を事前に入手しなければなりません。トランザクションを送信する際には、ガス代の設定やノンスの管理など、技術的な概念の理解が求められます。
これらの手順は、既存のWeb2サービス(Googleアカウントの作成やPayPalの設定)と比較すると、はるかに複雑で分かりにくいものです。AAは、このオンボーディングの壁を技術的に取り除こうとする試みです。
1-2. 秘密鍵管理のジレンマ——セキュリティ vs ユーザビリティ
暗号資産ウォレットのセキュリティモデルは、「秘密鍵を持つ者がすべてを制御する」という原則に基づいています。これは「Not your keys, not your coins(秘密鍵を持っていなければ、あなたのコインではない)」というフレーズに象徴される、暗号資産のコア哲学です。
しかし、このモデルには大きなジレンマがあります。秘密鍵を安全に保管するためのベストプラクティス(ハードウェアウォレットの使用、シードフレーズの物理的バックアップ、マルチシグの設定など)は、技術リテラシーの高いユーザーにしか実践できません。
Chainalysis社のレポートによると、ビットコインの全供給量のうち約20%(約400万BTC)が、秘密鍵の紛失により永久にアクセスできなくなっていると推定されています。これは数千億ドル相当の資産が失われていることを意味しており、「秘密鍵の紛失=資産の永久喪失」というモデルの限界を示す数字と言えるでしょう。
1-3. Web2とWeb3のUXギャップ
私たちが日常的に使っているWeb2サービスでは、パスワードを忘れた場合のリカバリー、生体認証によるログイン、サブスクリプションの自動支払い、複数アカウントの一元管理など、ユーザーフレンドリーな機能が当たり前になっています。
一方、現在の暗号資産ウォレットでは、パスワード(秘密鍵)のリカバリーは原則として不可能、生体認証によるトランザクション承認は限定的、自動支払い(定期的なトランザクション)は非対応、複数チェーンの資産管理は煩雑——という状態です。
AAは、このWeb2とWeb3のUXギャップを埋める技術として位置づけられています。Web2並みの使いやすさを維持しながら、Web3の自己主権性(自分の資産を自分で管理する)を損なわないこと——これがAAが目指しているゴールです。
2. アカウントアブストラクションの基本概念——EOAとスマートコントラクトウォレット
2-1. EOA(Externally Owned Account)の仕組み
イーサリアムをはじめとする多くのブロックチェーンには、2種類のアカウントが存在します。1つ目がEOA(Externally Owned Account:外部所有アカウント)で、これが現在ほとんどのユーザーが使用している一般的なウォレットです。
EOAは秘密鍵によって制御され、秘密鍵から導出される公開鍵(アドレス)を持ちます。MetaMask、Trust Wallet、Ledgerなどで作成される一般的なウォレットはすべてEOAです。EOAの特徴は以下の通りです。
秘密鍵一つですべての操作が可能。トランザクションを開始できるのはEOAのみ(スマートコントラクトアカウントは自発的にトランザクションを開始できない)。署名アルゴリズムはECDSA(楕円曲線デジタル署名アルゴリズム)に固定。認証ロジック(「誰がこのアカウントを操作できるか」のルール)を変更できない。
つまり、EOAの認証は「秘密鍵を持っているかどうか」という単一の条件に完全に依存しており、それ以外のロジック(「3人中2人の承認が必要」「1日の送金上限を設定する」など)を組み込むことができないのです。
2-2. コントラクトアカウント(CA)とスマートコントラクトウォレット
2つ目のアカウントタイプがコントラクトアカウント(CA:Contract Account)です。これはスマートコントラクトによって制御されるアカウントで、任意のロジック(ルール)をプログラムすることができます。
スマートコントラクトウォレットは、このコントラクトアカウントを利用したウォレットです。Safe(旧Gnosis Safe)は最も広く使われているスマートコントラクトウォレットの一つで、マルチシグ(複数の署名による承認)機能を提供しています。
しかし、従来のスマートコントラクトウォレットには根本的な制約がありました。イーサリアムのプロトコル上、トランザクションを「開始」できるのはEOAのみであるため、スマートコントラクトウォレットを操作するためには、まずEOAからトランザクションを送信する必要があったのです。つまり、スマートコントラクトウォレットを使うためにも、結局EOAの秘密鍵管理が必要でした。
2-3. アカウントアブストラクションが解決すること
アカウントアブストラクション(AA)は、EOAとコントラクトアカウントの区別を「抽象化」(アブストラクト)し、すべてのアカウントがスマートコントラクトのようにプログラマブルなロジックを持てるようにする概念です。
AAにより、アカウントの認証ロジックをカスタマイズできるようになります。具体的には以下のようなことが可能になります。
秘密鍵以外の認証方法(生体認証、ソーシャルログインなど)の使用。マルチシグやしきい値署名(3人中2人の承認で操作可能など)の柔軟な設定。ガス代をETH以外のトークンで支払う、あるいは第三者が代理で支払う。トランザクションのバッチ処理(複数の操作を1回のトランザクションにまとめる)。トランザクションの自動実行(特定の条件が満たされたときに自動的に操作を実行する)。
これらの機能はそれぞれ個別には既存の技術で部分的に実現可能でしたが、AAはこれらを統一的なフレームワークとして提供するものです。
3. ERC-4337——プロトコル変更なしでAAを実現する標準規格
3-1. ERC-4337の背景と設計思想
ERC-4337は、イーサリアムのコンセンサスレイヤー(プロトコル)を変更することなく、アプリケーションレイヤーでAAを実現するための標準規格です。2023年3月にイーサリアムメインネットにデプロイされました。
AAの概念自体は、ヴィタリック・ブテリン氏が2015年頃から提唱していました。当初はEIP-2938のようにプロトコルレベルでの変更が検討されていましたが、イーサリアムのコンセンサスレイヤーの変更は影響範囲が大きく、実装と合意形成に長い時間がかかります。
ERC-4337は、プロトコルを変更せずに「上位レイヤー」でAAを実現するというアプローチを取ることで、この問題を回避しました。これにより、イーサリアムのセキュリティモデルに影響を与えることなく、AAの恩恵をすぐに利用開始できるようになったのです。
3-2. ERC-4337の技術的な仕組み——UserOperation・Bundler・EntryPoint
ERC-4337の技術的な仕組みは、いくつかの新しい概念で構成されています。
UserOperation(ユーザーオペレーション): 従来のトランザクションに代わる新しい概念です。ユーザーが実行したい操作(送金、スワップなど)とその認証情報をパッケージ化したもので、通常のトランザクションとは別の経路で処理されます。
Bundler(バンドラー): 複数のUserOperationを収集し、一つのトランザクションにまとめてイーサリアムネットワークに送信する役割を担うノードです。ブロックの生成者(バリデーター)とは別に存在し、ユーザーはBundlerを通じてUserOperationを送信します。これにより、ユーザー自身がETHでガス代を支払う必要がなくなります。
EntryPoint(エントリーポイント): イーサリアム上にデプロイされたシングルトンスマートコントラクトで、すべてのUserOperationの検証と実行を管理します。Bundlerが送信したUserOperationをEntryPointが受け取り、各ユーザーのスマートコントラクトウォレットに対して操作を実行します。
Paymaster(ペイマスター): ガス代の支払いを代行するスマートコントラクトです。Paymasterを使用することで、ユーザーはガス代をETH以外のトークン(USDCなど)で支払ったり、dApp側がガス代を全額負担したりすることが可能になります。
3-3. ERC-4337の採用状況
ERC-4337は2023年3月のデプロイ以降、着実に採用が拡大しています。2026年時点で、イーサリアムメインネットおよびLayer 2(Polygon、Arbitrum、Optimism、Baseなど)を合わせて、数百万のERC-4337対応アカウントが作成されているとされています。
特にLayer 2チェーンでの採用が急速に進んでいます。これはLayer 2のガス代が低いため、ERC-4337の追加的なガスコスト(Bundlerやスマートコントラクトウォレットの実行コスト)が相対的に小さくなるためです。
Coinbase(Base チェーン)、Alchemy、Stackup、Pimlico、ZeroDev、Biconomyなどの企業がERC-4337のインフラやSDKを提供しており、開発者がAAを自身のdAppに統合しやすい環境が整いつつあります。
4. AAが実現する5つの革新的機能
4-1. ソーシャルリカバリー——秘密鍵紛失からの復旧
AAがもたらす最も画期的な機能の一つが、ソーシャルリカバリー(Social Recovery)です。これは、ウォレットの所有者が秘密鍵やデバイスを紛失した場合に、事前に指定した「ガーディアン」(信頼できる友人、家族、あるいは外部サービス)の承認によってウォレットへのアクセスを復旧する仕組みです。
たとえば、5人のガーディアンを設定し、そのうち3人の承認があればウォレットの制御権を新しい鍵に移行できるように設計できます。これは銀行口座のパスワードリセットに近い概念ですが、中央管理者ではなく分散的な信頼ネットワークに基づいている点が異なります。
ヴィタリック・ブテリン氏自身も、ソーシャルリカバリーウォレットが暗号資産のマスアダプションに不可欠であると繰り返し述べています。「秘密鍵を失ったら終わり」という恐怖がなくなれば、暗号資産への参入障壁は大幅に下がるでしょう。
4-2. ガス代の柔軟な支払い——Paymaster
ERC-4337のPaymaster機能により、ガス代の支払い方法に大幅な柔軟性が生まれます。
従来、イーサリアムでトランザクションを実行するためには、必ずETHでガス代を支払う必要がありました。これは初めて暗号資産を使うユーザーにとって大きな障壁です——USDCを受け取っても、送金するためにはまず別途ETHを入手しなければなりません。
Paymasterを使えば、以下のようなシナリオが可能になります。dApp運営者がユーザーのガス代を全額負担する(ユーザーは完全に無料でdAppを利用できる)。ガス代をERC-20トークン(USDC、DAIなど)で支払う。特定の条件(初回利用時、特定のNFT保持者など)でガス代を免除する。
これにより、ユーザーは「ガス代」という概念を意識することなくdAppを利用できるようになり、Web2サービスに近い体験が実現されます。
4-3. トランザクションのバッチ処理
AAにより、複数の操作を一つのトランザクションにまとめて実行する「バッチ処理」が可能になります。
たとえば、DeFiでトークンスワップを行う際、従来のEOAでは「ステップ1:トークンのApprove(承認)」「ステップ2:スワップの実行」という2回のトランザクション(2回の署名とガス代の支払い)が必要でした。AAでは、これらを1回のUserOperationにまとめることができます。
NFTのミント、複数のDeFiプロトコルへの同時操作、複数アドレスへの一括送金など、これまで複数回のトランザクションが必要だった操作がワンクリックで完了するようになります。これはガス代の節約にもつながり、ユーザー体験の大幅な向上に寄与します。
4-4. セッションキー——都度署名の煩わしさからの解放
セッションキー(Session Key)は、特定の期間・条件に限定された一時的な権限を持つ鍵のことです。
従来のEOAでは、すべてのトランザクションに対して秘密鍵による署名が必要でした。ブロックチェーンゲームを遊ぶたびに、移動や攻撃のたびにウォレットのポップアップが表示されて署名を求められるのは、ユーザー体験として極めて不便です。
セッションキーを使えば、「このゲームに対して、1時間だけ、0.01ETH以下のトランザクションを自動承認する」といった条件付きの権限委譲が可能になります。セッションキーには有効期限や利用上限が設定されるため、万が一セッションキーが漏洩しても、被害は限定的です。
4-5. カスタム認証ロジック——生体認証・パスキー対応
AAのスマートコントラクトウォレットでは、署名の検証ロジックをカスタマイズできるため、ECDSA以外の認証方式を利用することが可能です。
特に注目されているのが、WebAuthn/パスキー(Passkey)との統合です。パスキーはApple、Google、Microsoftが共同で推進する次世代認証規格で、デバイスの生体認証(Face ID、指紋認証)やPINを使ってパスワードレスの認証を実現します。
AAウォレットがパスキーに対応すれば、ユーザーはスマートフォンのFace IDや指紋認証だけで暗号資産の送金やdAppの操作を行えるようになります。シードフレーズの記録も不要になり、Web2サービスと同等の簡単さで暗号資産を利用できる世界が近づいてきています。
5. AAウォレットの実装事例——Safe・ZeroDev・Biconomy
5-1. Safe(旧Gnosis Safe)——マルチシグのパイオニア
Safe(旧Gnosis Safe)は、2018年から運用されている最も歴史の長いスマートコントラクトウォレットです。2026年時点で、Safe上で管理されている資産は数百億ドル規模に達しているとされ、DAO(分散型自律組織)やプロトコルのトレジャリー管理に広く使われています。
Safeの核となる機能はマルチシグ(Multi-Signature)で、「N人中M人の署名があればトランザクションが承認される」というルールを設定できます。たとえば、3人の共同管理者のうち2人が承認すれば送金が実行される、という設定が可能です。
ERC-4337の導入以降、SafeはAA対応を進めており、ガスレストランザクション、バッチ処理、セッションキーなどの機能をSafe上でも利用できるようになりつつあります。
5-2. ZeroDev——開発者向けAAインフラ
ZeroDev(ゼロデブ)は、開発者がERC-4337対応のスマートコントラクトウォレットをdAppに統合するためのSDK(ソフトウェア開発キット)とインフラを提供するプラットフォームです。
ZeroDevの「Kernel」と呼ばれるスマートコントラクトウォレットは、モジュラー設計を採用しており、認証ロジック(バリデーター)やトランザクション前後の処理(フック)をプラグインとして追加・変更できます。これにより、dAppの要件に応じてウォレットの機能をカスタマイズすることが可能です。
開発者は数行のコードでAA機能を自身のdAppに統合でき、ソーシャルログイン、ガススポンサーシップ(ガス代の代理支払い)、バッチトランザクションなどをユーザーに提供できます。
5-3. Biconomy——ガスレスSDKからAA基盤へ
Biconomy(ビコノミー)は、もともとガスレストランザクション(メタトランザクション)のインフラを提供していた企業で、ERC-4337の登場に伴いAA基盤へとピボット(方向転換)しました。
Biconomyの「Smart Account」は、ERC-4337準拠のスマートコントラクトウォレットとして、Paymaster(ガススポンサーシップ)、Bundler、モジュラーなバリデーション機能を統合的に提供しています。
特に、Biconomyは複数のチェーン(イーサリアム、Polygon、BNB Chain、Arbitrumなど)をサポートしており、クロスチェーンのAA体験を実現しようとしている点が特徴です。
6. AAとガスレストランザクション——ユーザー体験の根本的改善
6-1. ガスレス体験の仕組み——誰がガス代を払うのか
「ガスレストランザクション」という言葉は、トランザクションのガス代が消滅するという意味ではありません。ブロックチェーン上のすべてのトランザクションにはガス代が必要であり、これは不変です。「ガスレス」とは、エンドユーザーがガス代を負担しないという意味です。
では、誰がガス代を負担するのでしょうか。最も一般的なモデルは、dApp運営者がPaymasterスマートコントラクトにETHをデポジットし、ユーザーのトランザクションのガス代を代理で支払うというものです。
このモデルは、Web2のビジネスモデルに近い考え方です。Googleの検索やInstagramの投稿は無料ですが、その裏で広告収入やサブスクリプション収入がサービスの運営費を賄っています。同様に、dApp運営者がユーザーのガス代を負担し、その費用を他の収益源(手数料、プレミアム機能、トークンの価値上昇など)で回収するモデルが成立し得るのです。
6-2. ガススポンサーシップの経済モデル
ガススポンサーシップ(ガス代の代理支払い)を持続可能に運営するためには、経済的な合理性が必要です。
いくつかの一般的なモデルが存在しています。完全スポンサーシップモデルでは、dApp運営者がすべてのガス代を負担します。ユーザー獲得コスト(CAC)の一部としてガス代を位置づける考え方です。条件付きスポンサーシップモデルでは、初回利用時のみ、特定のNFT保持者のみ、月間上限までなど、条件を設定してスポンサーシップを提供します。トークン支払いモデルでは、ユーザーがガス代をETHではなくdApp独自のトークンやステーブルコインで支払います。PaymasterがバックグラウンドでトークンをETHに変換してガス代を支払います。
Layer 2チェーンのガス代はイーサリアムメインネットよりも大幅に低い(数セント〜数十セント程度)ため、ガススポンサーシップの負担は現実的な水準に収まるケースが増えています。
6-3. EIP-7702——EOAのアップグレードパス
ERC-4337に加えて、2024年以降注目されているのがEIP-7702です。これは、既存のEOAを一時的にスマートコントラクトウォレットとして振る舞わせることを可能にする提案です。
ERC-4337ではスマートコントラクトウォレットを新たにデプロイする必要がありますが、EIP-7702では既存のEOA(MetaMaskなどの一般的なウォレット)がそのままAA機能を利用できるようになります。これにより、既存の数千万のEOAユーザーがウォレットを移行することなくAA機能にアクセスできるようになる可能性があります。
EIP-7702はイーサリアムのPectraアップグレード(2025年)に含まれる予定とされており、実装されればAAの普及を大きく加速させると期待されています。
7. AAが直面する課題と限界
7-1. ガスコストの増加——AAのオーバーヘッド
ERC-4337には技術的な課題も存在します。最も直接的な課題が、ガスコストの増加です。
ERC-4337のUserOperationは、従来のEOAトランザクションと比較して追加的なガスコストがかかります。スマートコントラクトウォレットのデプロイ、Bundlerによる検証、EntryPointでの処理など、複数のスマートコントラクトの実行が必要となるためです。
イーサリアムメインネットでは、このオーバーヘッドが無視できない金額(数ドル〜数十ドル)になる場合があり、AAの利点がコスト増加で相殺されてしまうリスクがあります。この問題はLayer 2チェーン(ガス代が低い環境)での利用では大幅に緩和されますが、メインネットでのAA普及にとっては依然としてハードルとなっています。
7-2. セキュリティリスク——スマートコントラクトの脆弱性
スマートコントラクトウォレットは、その名の通りスマートコントラクトです。つまり、コードにバグや脆弱性があれば、ユーザーの資産が危険にさらされる可能性があります。
2016年のThe DAO事件では、スマートコントラクトの脆弱性により約360万ETH(当時約5,000万ドル)が不正に流出しました。スマートコントラクトウォレットも同様のリスクを抱えており、厳格なセキュリティ監査と形式検証が不可欠です。
Safeのように長期間にわたって数百億ドルの資産を安全に管理してきた実績のあるスマートコントラクトウォレットは、その安全性がある程度実証されていると言えますが、新しいAA実装については慎重な姿勢が求められるでしょう。
7-3. 標準化とエコシステムの断片化
ERC-4337は広く採用されている標準ではありますが、AA実装のアプローチはプロジェクトによって異なる部分があり、エコシステムの断片化が懸念されています。
異なるAA実装間の相互運用性(あるdAppで作成したAAウォレットを別のdAppでシームレスに使えるか)、クロスチェーンでのAA体験の統一(異なるチェーンでのAAウォレットの管理)、ウォレットのポータビリティ(AAウォレットプロバイダーを乗り換える際の資産移動)など、標準化が必要な領域はまだ多く残されています。
8. AAの未来——Web3のマスアダプションへの道
8-1. 「見えないウォレット」の時代
AAの進化の先に見えてくるのは、「ウォレットが見えなくなる」未来です。
現在、暗号資産を使うためにはまず「ウォレットアプリを起動する」「接続する」という意識的なアクションが必要ですが、AA技術が成熟すれば、ウォレットの存在を意識することなくWeb3サービスを利用できるようになるかもしれません。
たとえば、ゲームやSNSのアカウント作成時にバックグラウンドでスマートコントラクトウォレットが自動的に作成され、パスキー(Face IDや指紋)で認証し、ガス代はサービス提供者が負担する——そんな体験が実現すれば、ユーザーはブロックチェーン技術を使っていることすら意識しなくなるでしょう。
これは「チェーンアブストラクション」とも呼ばれる概念で、AAはその核心的な技術の一つです。
8-2. AAとDeFiの進化——より洗練された金融体験
AAはDeFiの利用体験も大きく変える可能性があります。
自動リバランス(ポートフォリオの配分が崩れたときに自動的に売買を行う)、条件付き注文(特定の価格に達したら自動的にスワップを実行する)、定期積立(毎月一定額のトークンを自動購入する)、リスク管理の自動化(担保率が危険水準に近づいたら自動的にポジションを調整する)——これらの機能はAAのプログラマブルなトランザクション実行能力によって初めて可能になります。
従来のDeFiでは、これらの操作をすべてユーザーが手動で行う必要がありましたが、AAにより「設定したら忘れる」スタイルのDeFi運用が実現される可能性があります。
8-3. AAの普及がもたらす暗号資産市場への影響
AAの普及は、暗号資産市場全体にポジティブな影響を与える可能性があります。
第一に、新規ユーザーの流入加速です。ウォレットのUXが改善されることで、これまで暗号資産に関心がありながらも技術的なハードルで参入を躊躇していた層が市場に入ってくる可能性があります。
第二に、ユーザーのリテンション向上です。資産の紛失リスクが軽減されることで、一度参入したユーザーが市場に留まりやすくなると考えられます。
第三に、dAppの品質向上です。AAインフラの充実により、開発者はウォレット接続やトランザクション管理に費やす開発リソースを、本来のアプリケーション機能の改善に振り向けることができるようになります。
暗号資産の次の10億人のユーザーを獲得するためには、技術的な専門知識がなくても安全に使えるウォレットが不可欠です。AAはその実現に向けた最も重要な技術の一つと言えるのではないでしょうか。
まとめ
アカウントアブストラクション(AA)は、暗号資産ウォレットの根本的な設計を見直し、ユーザー体験を飛躍的に改善する技術です。従来のEOA(外部所有アカウント)が抱えていた「秘密鍵紛失=資産喪失」「ガス代の事前準備」「トランザクションごとの署名」といった課題を、スマートコントラクトウォレットのプログラマビリティによって解決しようとしています。
ERC-4337は、イーサリアムのプロトコルを変更することなくAAを実現する標準規格として2023年に導入され、Layer 2チェーンを中心に急速に採用が拡大しています。ソーシャルリカバリー、ガススポンサーシップ、バッチトランザクション、セッションキー、パスキー認証といった革新的な機能が、Web2並みのユーザー体験をWeb3に持ち込みつつあります。
一方で、ガスコストのオーバーヘッド、スマートコントラクトのセキュリティリスク、エコシステムの断片化といった課題も残されています。しかし、これらの課題はLayer 2のガス代低下やEIP-7702の導入によって段階的に解消されていくと期待されています。
暗号資産が次の10億人のユーザーに届くために、AAは欠かすことのできない技術基盤となるでしょう。
よくある質問(FAQ)
Q1. アカウントアブストラクションとは、簡単に言うと何ですか?
アカウントアブストラクションとは、暗号資産ウォレットをスマートコントラクト(プログラム)で動かすことで、従来のウォレットでは不可能だった機能(秘密鍵の復旧、ガス代の代理支払い、複数操作の一括実行など)を実現する技術です。簡単に言えば、「ウォレットをもっと賢く、使いやすくする技術」と言えるでしょう。
Q2. ERC-4337を使うには新しいウォレットが必要ですか?
現時点では、ERC-4337に対応したスマートコントラクトウォレットを新たに作成する必要があります。ただし、EIP-7702が実装されれば、既存のEOA(MetaMaskなどの通常のウォレット)からもAA機能にアクセスできるようになる可能性があります。
Q3. AAウォレットはEOAよりも安全ですか?
一概には言えません。AAウォレットはソーシャルリカバリーやマルチシグなどにより、秘密鍵紛失のリスクを軽減できる点では安全性が向上しています。しかし、スマートコントラクトの脆弱性という新たなリスクが加わります。総合的に見れば、適切に実装・監査されたAAウォレットは、単一の秘密鍵に依存するEOAよりも安全なモデルを提供できると考えられます。
Q4. ビットコインにもアカウントアブストラクションはありますか?
ビットコインにはイーサリアムのようなスマートコントラクトアカウントの概念がないため、ERC-4337と同じ形でのAAは存在しません。ただし、Taprootの導入によりビットコインスクリプトの柔軟性が向上しており、より複雑な条件付きトランザクションが可能になっています。また、Layer 2(Lightning Networkなど)やサイドチェーン上でAAに類似した機能を実現しようとする取り組みも進んでいます。
Q5. ガスレストランザクションは本当に無料ですか?
ブロックチェーン上のトランザクションには必ずガス代が発生するため、完全に「無料」というわけではありません。「ガスレス」とは、エンドユーザーがガス代を支払う必要がないという意味で、実際にはdApp運営者やPaymasterがガス代を代理で支払っています。ユーザーの視点からは「無料」に見えますが、コストは別の形で吸収されています。
Q6. AAはイーサリアム以外のチェーンでも使えますか?
はい、ERC-4337はEVM(Ethereum Virtual Machine)互換のチェーンであれば利用可能です。Polygon、Arbitrum、Optimism、Base、BNB Chainなどの主要なEVM互換チェーンではすでにERC-4337が稼働しています。また、EVM互換ではないチェーン(Solana、Nearなど)でも、ネイティブのAA機能やそれに類似する仕組みが実装されているケースがあります。
※本記事は情報提供を目的としており、投資を推奨するものではありません。暗号資産への投資は元本割れのリスクがあります。投資判断はご自身の責任で行ってください。